ヘボンホール銘板

平成14年4月1日をもって、医学部多目的ホールが“ヘボンホール”に改名されました。
改名を記念して、平成13年11月10日に、命名式典と、ホールの入り口右側にヘボン博士の肖像が浮き彫りにされた銘板の除幕式がおこなわれました。

ヘボンホール命名式典と銘板除幕式

平成13年11月10日、福浦キャンパス発足以来、通称となっていた多目的ホールの名称がヘボンホールと改名することを記念して、先ず午後1時に銘板の除幕式が行なわれた。当日は生憎の雨天であったが加藤祐三学長、奥田研爾医学部長、出席のもと、先ず倶進会井出研会長と大島智夫名誉教授により除幕が行なわれた。銘板は50cm×50cm×1.5cmのステンレス製でヘボン博士の肖像が浮彫りにされDr.C.Hepburnと横に名前が入った極めて清楚にして美しい仕上りでホールの入口右側に掲げられた。除幕に先立ち井出会長の挨拶があり、命名に到るまでの経過と関係者のへ謝辞、また、銘板の全費用を負担した旨と、今後ヘボン博士の医療に対する真摯な態度をこのホールから学んでほしいと希望をのべた。

このあとホールに戻り医学部学生10名余りによる管弦楽室内演奏が披露されて拍手を浴びた。曲目は、ゲオルグフリデリックヘンデルの合奏協奏曲No.6の第1楽章、及びフレデリックデリウス作の2つの水彩画の第1・第2楽章。医学部生だけで室内楽が立派にできることに敬服。医学部長挨拶、学長祝辞に続いて来賓として御招きした明治学院々長久世 了先生のヘボン塾が現在の明治学院に淵源があると話された。ヘボン塾はヨコハマにあったヘボンの自宅でクララ夫人が英語を教えたのが始まりであるので、初代院長であるヘボンのルーツをヨコハマ市大にとられてしまうかも知れないと参加者を笑わせた。記念講演として、大島智夫名誉教授が「ヘボンの医療とその精神」と題してヘボンは眼科医とされているが外科手術もかなり手がけていて並の技ではない。また報酬を一切受けとらなかったという事蹟を記録により検証され、医療の原点といえるものがヘボンにあり、医に携わるものはヘボンに学んでほしいと希望された。

式典終了後、生協食堂に場を移して紅茶とコーヒーに手作りのケーキで懇親会が開かれた。ヘボンホールを提唱されていた宍戸昌夫名誉教授も御満悦の御様子であった。
命名の発効は14年4月1日。

(倶進会たより94号/平成14年4月30日発行より抜粋)

ヘボンホール命名にあたって ―今なぜヘボンかー
名誉教授 大島 智夫

平成13年11月10日、今まで便宜的に多目的講堂と呼ばれていた講堂をヘボンホールと名付ける式典が行われました。ホール入り口にヘボン博士のプロフィールのはいった瀟洒なパネルが井出研倶進会長の挨拶で除幕され、引き続き加藤祐三学長、久世了明治学院学院長の来賓としての祝辞を頂き、医学部室内合奏団の見事なアンサンブルの祝演があり、そのあとで小生が「ヘボンの医療とその精神」と題して記念講演をしました。式後に学生諸君の手作りのケーキを賞味しながらなごやかな記念パーティーが開かれました。

私が91年に退官して以来、市大医学部は芳しからざるニュースが連続し、かつて教職の末席に連なった者も鬱々とした日を送っていたのです。この日冷たい雨に見舞われながら多くの参列者があり、式の終る頃には西空も明るくなり、何か市大医学部のこれからを象徴するように思えたのは私一人ではなかったでしょう。

講堂の名一つ変えたくらいで医学部が変わる筈はありません。しかし医学部がヘボン博士の精神を学ぶことが大切だと気付いてくれたことは画期的なことなのです。

日本の近代医学および医学教育はドイツ医学一辺倒で始まりました。そのいきさつは神谷昭典氏の論考(「日本近代医学の定率」、「日本近代医学の相剋」、医療図書出版社)に詳説されています。その結果医学部には教授がミニ天皇として君臨する講座制が敷かれ、医学は、志賀、北里、野口などの代表選手による国威宣揚の道具とはなっても、国民のための医療は棚上げされ続けてきたのが真実です。戦後も医学部の講座制が温存されたせいもあり、この陰湿な風潮は日本医学教育の宿命となって残存しているのです。

明治政府が天皇制の日本には民主国の医療はなじまないと受容を拒否した米国の医学は、19世紀にはアメリカ東海岸のボストン、ニューヨーク、ボルチモア、フィラデルフィア、に著名な医学教育機関が整備され、欧州医学の国家依存体質から全く解放され、国民のための医療が欧州医学しのぐ水準に向上していたのです。それを体現して開国早々の日本の土を踏んだのがヘボン博士です。

安政6年、博士は夫人をつれ44歳で神奈川に上陸し、蝦夷の嵐の中に庶民の診療を開始し、体力の限界まで18年間、のべ1万人以上の横浜市民を無料で診療しました。彼の医療を志した動機と精神は、ニューイングランドに育ったカルビニスト、またピューリタンとしての信仰と信念です。

彼は病める者に貴賎の別なく、春風のような温容をもって接し、彼らの苦しみを除き、しかも一銭の謝礼も受け取りませんでした。人々はそれをいぶかりましたが、彼の生活費は彼を派遣した米国長老教会が負担してくれ、医療の費用はそれまでニューヨークでの医師としての10年間働いた貯えと、訪日にあたり手放した不動産1万ドル(現在の約1億円)をあてたのです。

彼に接した幕府の役人ですら「君子とはヘボンのような人を云うのだ」と彼の人格を賛嘆し、彼により病の苦しみを解放された人たちは、ただで治してもらったとの打算を離れ、彼への感謝とともに、彼を動かしているキリスト教への敬意を抱いたのです。

横浜市大医学部の再生には新しい精神が必要です。ヘボンホールに出入する医学部の学生、職員の皆さんはヘボン博士とはどういう人であったのか、何が彼をそのような高貴な精神の医師にしたのか、また彼は現代の我々に何を語りかけているのかに関心を持って頂ければ幸いです。

幸い、下記の資料は現在入手できます。

  • 高山道男 「ヘボン」 吉川弘文館
  • 同氏編訳 「ヘボン書簡集」 岩波書店
  • 同氏編訳 「ヘボンの手紙」 有鱗選書
  • 望月洋子 「ヘボンと日本語」 新潮社
  • グリフィス 「ヘボン」 高谷・佐々木館監訳、教文館

また、私は近く「ヘボンの医療とその精神」をまとめますので読んでください。

ヘボンホール命名に当たり、賛意を表して頂いた医学部教授会各位、財政的援助を惜しまなかった倶進会、要望書に名を連ねてくださった多くの方々、特に3回生有志の皆様にこの場を借り、熱くお礼申し上げます。

(倶進会たより94号/平成14年4月30日発行より抜粋)

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