横浜医史跡めぐり 13 金沢文庫

武家文化を偲び、極楽浄土を模した称名寺境内に学ぶ
衣笠 昭

京浜急行金沢文庫駅を降り、約800mほど閑静な住宅街を歩きますと、左手に1258年(正嘉2年)頃北条実時の創建による称名寺があります。この境内に現在整備された昔のトンネルがあり、これを抜けると目の前に近代的な神奈川県立金沢文庫の建物が建っております。

この金沢文庫の歴史は古く、鎌倉幕府の執権北条義時の孫実時が1275年(建治元年)ころ創建されたと言われています。実時は幼い時より学問を好み、早くから儒家清原教隆に師事して政治・法制・農政・軍学・文学など広範囲の書物を学んでおりました。晩年病を得て幕府の要職を引き、鎌倉の邸宅よりこの地金沢に住むと同時にその膨大な書物も移され、金沢文庫の基礎となったのでした。

金沢文庫は実時の没後その子顕時、貞顕、そして孫の貞将と引き継がれていきましたが、なかでも貞顕の時代が最も充実していたと考えられ、蔵書数は相当な量であったと思われます。これらの蔵書は厳重な規則のもとに北条氏一門や称名寺の学僧らによって利用され、全国より僧侶をはじめ多くの人がここを訪れました。これらの人々のために称名寺内に講座が開かれ「金澤学校」と言われましたが、この生徒たちによっても蔵書は利用されました。称名寺2代目長老となった「徒然草」で有名な卜部兼好もここで学んだ一人です。

1333年(元弘3年)鎌倉幕府の崩壊とともに北条一族は滅び、文庫の発展に最も力を尽くした貞顕は14代執権高時とともに鎌倉東勝寺で自刃したため、保護者を失った文庫は急速に衰えました。南北朝時代になるとその建物さえ消失し、その膨大な書物は称名寺によつて保管されましたが、その蔵書は時の政治権力者たちによって持ち出され散逸してしまいました。なかでも1561年(永禄4年)には上杉謙信が、1602年(慶長7年)には徳川家康が、1677年(延宝5年)には前田綱紀が大量に持ち出したという記録があり、現在それらの文庫所蔵本は宮内庁書陵部や内閣文庫などに保管されてあります。

このように見る影もなくなってしまった金沢文庫でしたが、1887年(明治20年)ごろ伊藤博文らの助力により一部復旧しました。しかし当時の内外情勢は厳しく、援助もままならない内に再び崩壊してしまったのです。のち1927年(昭和2年)昭和天皇の即位による御大典記念事業として神奈川県が復興をはかり、1930年(昭和5年)県立金沢文庫として出発、称名寺横に建設されました。以来称名寺ならびに金沢文庫に伝わる膨大な古文書や美術工芸品などの文化財を保管し、調査研究を続けてきました。この中で医学に関係のあるものとしては、仏典として中国より輸入した「宋版大蔵経」3490巻があり、仏教医学に関する経文が多数収められてあります。1955年(昭和30年)よりは博物館として運営されてきましたが、1990年(平成2年)700年ぶりに創建された現在の場所に戻り、装いをあらたにしたのです。

近代的な建物である金沢文庫の前に立つ時、昔の様子を想像することはできませんが、展示された古文書を見たり称名寺の境内に佇み、世界に誇る日本中世の武家文化を偲ぶのも心の糧となると考えます。

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