横浜医史跡めぐり 11 杉田玄白と間宮林蔵

二人の開拓精神 横浜の地にルーツ
深瀬 泰旦

わが国の医学の歴史の上で燦然として輝いている「解体新書」の翻訳、出版にあたって、前野良沢とともに中心的役割をはたしたのが杉田玄白です。

間宮林蔵は1809年(文化6年)にシベリア探検によって、樺太が大陸と陸続きでないことを確認し、間宮海峡の発見者として有名です。

この玄白と林蔵の二人は親類関係にあり、横浜がその共通の遠祖の地なのです。戦国時代、真野新左衛門信安は武蔵国久良岐郡杉田邑に住んで、後北條氏の家臣であった間宮豊前守信高につかえていました。軍功によって姓を間宮とあらためることをゆるされ、その子長安もやはり後北條氏につかえていましたが、主家の滅亡とともに東国を流浪し、のちふたたび杉田村にかえって姓を杉田とあらためました。

この頃分家した間宮氏は以後、杉田の領主となり一方、長安の子孫は稲毛領菅生村(現在の川崎市宮前区)に住むようになりました。そこで長安の墓は菅生の長安寺にありますが、杉田間宮氏の墓は牛頭山妙法寺(磯子区杉田5丁目)にあります。

玄白は長安の五世の孫にあたります。祖父初代甫仙の代から小浜藩につかえ、江戸に住むようになりました。

江戸時代から明治の中ごろまで、杉田は梅林の里として有名でした。「江戸名所花暦」(文政10年)にも「花の頃は東都の遊客旅立ちぬ」とあって、江戸人も足を運んでいたことが記されています。これは妙法寺あたりの地域なのです。

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