横浜医史跡めぐり 8 丸善と早矢仕有的
- 発祥の地 今も弁天通にその名をとどめる
- 中西 淳朗
西洋文明の輸入地である横浜にとって丸善は忘れることのできない日本の商社です。
この商社ははじめは丸屋といい外国の本や雑誌、薬、病院で使う器械などを専門に輸入して販売しました。
この商社を作った早矢仕有的(はやし・ゆうてき)は、1837年(天保8年)の生まれで今の岐阜県の出身です。その地で有的は漢学、医学、蘭学を勉強し、1859年(安政6年)8月に江戸に出て町医者となりました。
1867年(慶応3年)の2月頃、築地の福沢塾に入門し、英学を学び3才年上の福沢諭吉に指導をうけるようになりました。
翌年の8月、横浜の吉原町(いまの長者町付近)に梅毒病院ができました。院長職の英医ジョージ・ニュートンの下に早矢仕有的は医員として勤めました。この時の苦労が丸屋という商社をつくる動機となりました。1869年(明治2年)にできた丸屋の経営については福沢諭吉も肩入れしましたので、東京に支店をだし慶応義塾と深くつきあいました。
早矢仕が横浜にはじめて住んだのは新浜町でしたが、後に相生町、境(堺)町と移転しました。境(堺)町1丁目に1870年(明治3年)静々舎という診療所を作り、同時に2丁目に丸屋薬局を開きました。病人は診療所で薬の処方を書いた紙をもらい、薬局で調合してもらうという欧米ノシステム(医薬分業)を彼は実践してみせました。