横浜医史跡めぐり 7 横浜港

現代史の玄関口。明治以前は一寒村。
衣笠 昭

JR桜木町駅より南へ歩いて約20分、神奈川県庁の横を左に入ると横浜港を代表する中央桟橋が見えてきます。横浜港は1859年(安政6年)わが国最大の貿易港として開港しましたが、それ以前この地域は80戸ほどの漁師の家が散在する横浜村でした。それが一転して全国の生糸の輸出を独占する大都市となったのです。この発展の様子は横浜市歌を口ずさむことで容易に想像できます。

わが日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連なりそばたつ島々なれば
あらゆる国より船こそ通え

開港当時の横浜 ここに一枚の写真があります。開港当時来日したフランス人ベアトが横浜を撮影したものですが、現在の横浜から見ると想像ができないような貧しい町です。

されば港の数多かれど
この横浜に勝るあらめや
昔思えば苫屋のけむり
ちらりほらりと立てりしところ

その後、貿易港としての役割は次第に増加し、拡張に次ぐ拡張で商港区と工業港区とに分割され、その機能を発揮しつつありました。

開港資料館内の玉楠 1923年(大正12年)9月1日関東大震災が発生し、横浜港も壊滅的な被害を受けました。周囲の建物は灰燼に帰し、現在横浜開港資料館になっている英国領事館も瓦礫の山となったのですが、この中庭に一本の玉楠がありました。 この木の近くで1854年(嘉永7年)3月31日日米和親条約すなわち神奈川条約がペリーと林大学頭の間に結ばれたといわれておりますが、もちろんこの木の幹も焼けてしまいました。しかし残った根から復興の横浜を象徴するように新たな芽が息吹始め、現在では四季を通じて資料館の庭にその影を投げかけております。

昭和に入ってからは神戸港を凌ぐ発展をとげ、1937年に停泊した船は6,225隻であったものが1968年には11,484隻におよび、アメリカを始めイギリス、ノルウェーなどよりの船が相次いで入・出航しました。この間1945年第2次世界大戦終結と共に駐留軍に接収され一時はその繁栄を失いましたが、接収の解除につれ往時の賑やかさを取り戻しました。大桟橋埠頭の隣にある山下公園から眺めますと優雅な形をした外国航路の船が横づけになっており、町にはその昔人力車夫から発生したと伝えられる横浜英語が飛び交い、さまざまな服装をした外国人がさざめくエキゾチックな場所として発展してきたのです。

今は百船百千船
泊まる処ぞ見よや
果てなく栄えて行くらん御代を
飾る宝も入りくる港

現在の横浜港 とはいえ最近は陸路交通や航空路線の発達により海運業は次第に衰退の一途をたどり、往年の華やかさは見るべくもありません。しかし横浜に生まれ育った人達は、この歌に象徴されるようにますますの発展を期待して日夜努力を重ねているのです。

太平洋を目の前に
踊る希望の眉あげて
諸手さしのべ叫ぶべし
古き誇りと新しき
力みなぎる喜びを
築けよ港横浜の
不朽の塔をいや高く
(横浜行進曲より)

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