横浜医史跡めぐり 6 野毛山軍陣病院

沿革を辿れば、横浜市立大学医学部の前身者を葬う、土佐・長州藩の兵士らの永眠の地
中西 淳朗

1862年(文久2年)の6月11日に英国の医師ウィリアム・ウィリスは公使館の一員として来日しました。間もなく横浜に移り生麦事件(閏8月12日)などのテロ事件の処理に働きました。その2年後、横浜に天然痘が発生し外国人にまで拡がった時、これの治療と予防接種に力をつくし、医師としての力量が高く評価されました。

1868年(慶応4年)1月2日、維新戦争勃発のとき、ウィリス医師はパークス公使と共に大阪、兵庫に出張しており、鳥羽伏見の戦いの戦傷者の手当を所属藩を問わずに行っています。このときウィリスの外科医としての評判は特に薩摩藩で高かったのであります。

野毛の修文館(明治6,7年頃) この年(1868)の4月11日には江戸城開城となりました。そのあと江戸周辺での小衝突がありましたので、新政府はウィリスを雇い4月14日付で病院を江戸に開こうとしました。しかし、彼はこの年に副領事に昇進しており、またパークス公使の息子の病気治療中で横浜を離れられないこともあって、閏4月17日に野毛山上の修文館に軍隊用の病院を開きました。

ウィリスは次のようにレポートしています。
“旧幕府の下で使用された漢文学校に患者が収容されました。やがて傷病兵の数は次第に増加し収容限度をこえたため太田陣屋を使用しました。”
野毛山上の修文館のあった所は、現在の老松中学校の地で、約7ヶ月、軍陣病院として使われその後、この地に中病院が移転し1873年(明治6年)12月に十全医(病)院となりました。これが横浜市立大学医学部附属病院の前身であります。

会員の方はこちら

建物外観
〒236-0004
横浜市金沢区福浦3-9
横浜市立大学医学部内
045-785-9338
045-785-9328
ページ上部へ