横浜医史跡めぐり 5 久保山官修墓地

異郷での戦死者を葬う、土佐・長州藩の兵士らの永眠の地
中西 淳朗

1868年(慶応4年)4月、維新戦争は江戸開城のあと、江戸周辺、箱根、宇都宮などで新たな戦がおこり拡がっていきました。

そのため維新政府は野毛山に軍陣病院を作り、戦傷者を収容して英国の公使官付医師であるW.ウィルス、B.G.シッドールらの治療をうけさせました。

長州墓地 不幸にも横浜で死去した兵士のうち、土佐、長州藩の方々の遺体は野毛の大聖院内に葬られました。

1874年(明治7年)7月、西区の久保山に共葬墓地が設けられたとき、大聖院からここに改葬されました。第3区には土佐藩の、第5区には長州藩の官修墓地があります。埋葬されている兵士のほとんどが、1868年(慶応4年)の6月以降に太田陣屋(現在の京急日ノ出町駅前周辺、外国人警護のための陣屋で5月19日以後は病院の主体となりました)で死亡していることが、最近の墓誌ならびに病院日誌の研究で明らかになりました。このことは従来の説と異なり両藩の兵士が洲干弁天語学所内で一人も死亡しなかったことを意味しています。

長州藩の墓地は、西区役所や山口県らによって、小公園風に整備されています。(写真、両端は非入院死者)よく見ると、6基の墓碑は神式に形を整えてあります。一方、土佐藩の墓地は敷地が狭く、余り手が加えられておらず、5基の墓碑も丸味を帯びて仏式であることがうかがえます。

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