横浜医史跡めぐり 4 エルドリッチ(S.Eldridge)

イギリス本国で没するも、遺骨はヨコハマの地に。函館・横浜で治療
衣笠 昭
エルドリッジ
横浜開港当時の医師エルドリッジ

1859年(安政6年)日本最大の貿易港として横浜港が開港しました。同時にアメリカやイギリスを始め各国の人々がいろいろの目的をもって来日したのです。この人達は必ずしも我が国にとって有益となったとは限りませんが、中には本当に日本を愛し、日本人の為に力を尽くした人も数多くおります。その中の一人に横浜の医療に貢献し、今は外人墓地に眠るエルドリッジがおります。

エルドリッジ(Stuart Eldridge)は1843年アメリカに生まれ、維新後間もない1871年(明治4年)28歳で来日し、翌5年北海道に渡り開拓事業の一環として造られた開拓使函館医学校の開校と同時に同校の教授となりました。当時は医学校教授としての人材が不足していたためでしょうが、基礎医学・臨床医学の全部の科目を一人で講義していたとの事です。

また、その頃開設された函館病院で一般患者の治療にあたっただけでなく積極的に病理解剖や司法解剖も行い、1874年(明治7年)ロシア人サルトフの病理解剖、ドイツ人ハーバーの死体検案を行った記録が残っております。

JR石川町駅から行く、外人墓地・エルドリッジ墓碑へのアクセスマップ 函館での任期満了後横浜に移り、山下町の居留地に診療所を開業し、自宅を山手町167番地に定めて日本での本格的な医療に着手したのです。その間、神奈川県衛生顧問、十全医(病)院(横浜市立大学医学部附属病院の前身)外科、山手一般病院(現在診療所となっている)院長、アメリカ領事館衛生顧問、慈恵成医会副会長などの要職を歴任し、明治中期における横浜の医療に貢献した彼の功績は高く評価されています。

エルドリッジは絵が得意であったため、医学の講義に使用する図などは画家の手をわずらわすことなく自分で描いていました。また筆まめで多数の著述を残しておりますが、その主なものに[近世医説][日本の脚気][アイヌの矢毒][ペスト概説」などがあります。進歩的な考えを持ち、火葬を提唱していた彼は遺言により荼毘に付され、生前の功績に対し日本政府より勲三等瑞宝章が贈られました。エルドリッジ夫人は夫の死後10数年間横浜に住んでいましたが、のちイギリスに移り彼の地で1930年(昭和5年)に亡くなり、遺骨は娘により日本に持ち帰られました。現在山手外人墓地の第4区、正面入口を入って左に折れ、柵に沿って10メートルほど進んだ所に横たわる大きな十字架の墓石があります。向かって右側にStuart Eldridge、左側にFrances Heath Eldridgeと刻まれ、それぞれの生没年が記されてあり、生涯を通じて横浜の医療に力を尽くした夫妻はここに眠っているのです。

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