横浜医史跡めぐり 3 シモンズ(D.B.Simmons)

ヘボンと並び、横浜近代医学の創始者、福沢諭吉との交遊
荒井 保男

シモンズ 横浜開港後の1859年(安政6年)11月1日、D.B.シモンズ(Duane.B.Simmons)は和蘭改革派教会の派遣宣教師兼医師として神奈川に到着した。S.R.ブラウン、G.F.フルベッキと一緒であった。先に来日していたヘボンとは別に、宗興寺に居を構えたが、翌年の春には宣教師を辞して、完全なる医師としての道を選び、居留地82番に開業した。

辞任の理由は夫人が極端なユニテリアンで生活も派手であったことによるといわれる。

開業医としてのシモンズは好評であったが、翻然、欧州に渡り、英独仏の[大家碩学ト医術ノ討論研究シ」、再び来日した。

帰国後、フルベッキの推薦により、1870年(明治3年)3月、大学東校に奉職し、約1年間勤務した。

辞任後、1871年(明治4年)春、横浜元弁天通りに建設された仮病院に週1回の割合で勤務した。

この頃、すなわち1872年(明治5年)1月、シモンズは神奈川県令あてに「防恙法建立執行之儀」の建言書を提出した。この建議はわが国で初めて伝染病予防の必要性を訴えたもので、わが国公衆衛生の嚆矢とされる。この建議が採用され、神奈川権令大江卓が立案、指導して制定されたのが、1873年(明治6年)の「家作建労条目」である。

週1回の割合で勤務していた仮病院が不幸にして焼失してしますと、権令大江卓は病院の必要性を説き、再建を勧説し、1872年(明治5年)9月、横浜市中病院が設立された。これが野毛山修文館跡、現在の老松中学校の地に移転、1873年(明治6年)、十全医(病)院と改称されるが、シモンズは1873年(明治6年)6月より神奈川県雇医に任命された。月給320円。

以後、十全医(病)院の全権を与えられ、十全医(病)の看板医として活躍、名医の名をほしいままにした。なかでも①人体解剖と脚気死亡患者の病体解剖の施行 ②明治10年、11年と続くコレラ大流行の際の適切な治療と予防活動 ③県下全域への種痘の励行と実施などは高く評価されるべき業績である。

梅毒の治療にもすぐれ「梅毒小篇」の著者がある。当時もてはやされた駆虫剤セメンエンはシモンズの創出によるものとされ、広く、服用された。シモンズ直伝とされる薬用石鹸もある。

シモンズと福沢諭吉の交遊もまた特筆されるべきで、1870年(明治3年)シモンズ36歳、この年、福沢は発疹チフスで生死の間をさまよったが、シモンズの適切な加療が一命を取り留めたことから、両者肝胆相照らす仲となった。1873年(明治6年)、福沢が慶応義塾内に慶応医学所を設立すると、臨床講義を受け持つ一員となり、成医舎にもかかわりをもち、英米医学の担い手として活躍した。1880年(明治13年)3月、十全医(病)院を辞し、故国アメリカに帰り、ニューヨーク州ポーキプシーに住んだが1886年(明治19年)12月再び来日した。

以後、福沢の知遇を得て三田山上に居を構え、日本主義陣営の闘士として「時事新報」上に健筆をふるったが、不幸、病を得て、1889年(明治22年)2月死亡した。時に54歳、死因は腎炎であった。

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