横浜医史跡めぐり 2 ニュートン(G.B.Newton)

梅毒と天然痘の予防・治療に貢献
深瀬 泰旦

ニュートン 幕末の開国後に、横浜に駐屯していたイギリス海軍の海兵の間に梅毒が蔓延して、日常の軍務にも支障をきたすようになりました。その対策として生まれたのが、横浜梅毒病院です。イギリス海軍軍医のニュートンが中心になって、遊女の強制的な検診と患者の入院治療を行いました。

1867年(慶応3年)9月、ニュートンがはじめて梅毒病院を開いたのは吉原町(現在の中区長者町)であり、その町会所を仮病院として検診が開始されました。その翌年の6月18日に同じ吉原町に病院が新築されました。その後1873年(明治6年)になって、遊郭が吉原町から高島町に移転するのにともなって、病院も高島町9丁目(現在の西区高島町)に移転しました。

復原して本陣近くに建てられた高札 ニュートンは1867年(慶応3年)に来日し、横浜で精力的に駆梅事業と牛痘接種事業をおこないました。その結果1868年(明治元年)冬から1870年(明治3年)秋にかけて、2千人あまりの患者を治癒させることができました。一方、種痘事業では1870年(明治3年)冬の天然痘の流行にさいしては、日本政府を動かして種痘の強制接種を行いました。横浜では吉原町会所と神奈川宿本陣(石井源左衛門宅)で接種をおこなって、天然痘予防に一役をかったのです。

これら輝かしい業績を背にして、ニュートンは長崎にも梅毒病院を設立しようと彼の地におもむきましたが、長崎での病院建設は多くの難問に遭遇し、いわれなき中傷誹謗をあびて、失意のうちに1871年(明治4年)5月24日長崎で客死しました。

会員の方はこちら

建物外観
〒236-0004
横浜市金沢区福浦3-9
横浜市立大学医学部内
045-785-9338
045-785-9328
ページ上部へ