横浜医史跡めぐり 1 ヘボン(J.C.Hepburn)の足跡

日本近代医術の創始者、横浜に上陸
大滝 紀雄

1.神奈川のヘボン

ヘボンすなわちJames Curtis Hepburn(1815-1911)は、アメリカ、ペンシルバニア州で生まれました。プリンストン大学で文学を学び、のちペンシルバニア大学で医学博士の学位を得ました。彼はいつの日か日本へ赴き、医療を行う一方伝道を志していました。

1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀へ来航、日本に開国を迫りました。その5年後の1858年(安政5年)ポーハタン号上でハリスと岩瀬の間で「日米修好通商条約」が結ばれました。その条約の第8条には宗教の自由が記されていました。すなわちアメリカ人は日本で自国の宗教を信じて良く、礼拝堂を居留地に置いても良い。ただし日本人の神仏の礼拝を妨げてはならない、というものでした。200年以上もの間鎖国をして、外人を隔絶してきた日本がこうした条約を結んだことはまさに晴天の霹靂でした。

ニューヨークで眼科を開業中であったヘボンはこの朗報に接し、早速長老教会の許可を得て、自宅と病院を1万ドルで売却して、翌1859年開国したばかりの横浜に上陸したのでした。日本へ来たのは勿論この時が初めてでしたが、16年前の1843年から約2年間彼は中国のアモイでおよそ2,000人の患者の診療をした経験がありました。

成佛寺 横浜でのヘボンは 1.神奈川での生活、2.山下町での診療、3.山手での聖書翻訳の3期に分けることができます。幸なことに横浜ではそのいずれの場所にも彼を偲ぶ碑などが現存しています。ヘボンは来日後ただちに神奈川の成佛寺に住み、宗興寺で約5ヶ月診療を行いました。成佛寺は神奈川区本町にあり、東神奈川駅から徒歩10分足らずの距離で、門の前には、「史跡外国宣教師宿舎跡」の碑が建っています.神奈川区幸ヶ谷の宗興寺はそこから4~5分の距離でその境内には、「ヘボン博士施療所跡」の碑が昭和53年ヘボン博士顕彰会の手によって建てられました。ヘボンの場合、診療費用はすべて無料でした。神奈川では約3年間生活していたのに診療がわずか半年というのは、世情不安のため如何に幕府の制約が厳しかったかがうかがわれます。

2.居留地山下町での診療

居留地39番地跡の記念碑 国の方針に従い横浜居留地建設に参画するため、ヘボンは1862年居留地39番(旧谷戸橋畔)に住居を新築、診療開始の準備を始めました。ここでヘボンは診療のほか「和英語林集成」の出版、第一長老教会の設立などに努め、一方、夫人は英学塾を開きました。居留地39番は彼が20年間も住んだところで、現在中区山下町テレビ神奈川の隣、法務省横浜合同庁舎の建っている場所です。現在は「ヘボン博士邸跡」の記念碑と彼のレリーフの刻まれた碑が並んでいます。いずれも昭和24年彼の来日90周年を記念して建てられたものです。

3.最後の居住地

港の見える丘公園を目指して上り、外人墓地を右手奥に眺め、大佛次郎記念館、神奈川近代文学館を通り過ぎ韓国領事館のT字路を右折して約100メートル入った右側に、「ヘボン山手家族寮」が見えます。ここはヘボン最後の居住地で主として聖書の翻訳をしたり、総理として明治学院へ通ったりしたところです。比較的最近まで知られていませんでしたが、昭和53年「ヘボン博士顕彰会」の手でその場所を特定し、門柱にプレートをはめ込んだところです。ヘボンは帰国の1911年まで約10年間ここに住みました。

4.その他の記念碑

これには2ヶ所あります。一つは横浜市戸塚区にある明治学院横浜戸塚キャンパスにある博士の胸像と説明の碑です。高谷道男先生の提唱で明治学院同窓会によって建てられたもので、除幕式は平成4年4月に行われました。胸像は白金キャンパスの原型を使って制作されたものです。

もうひとつは金沢区福浦の横浜市大医学部情報センター入口にヘボンの肖像レリーフがあります。さらに歌舞伎俳優三代目沢村田之助に米国製の義足を装着する様子を描いた錦絵があり、信楽焼の陶板の美しいもので、傍らに「ヘボン博士の暖かい近代医学への精神こそ横浜市大医学部の範とすべきである」と記されています。昭和62年に完成したものです。

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